King's Ring

− 第2話 −





「国光、ちょっといいかしら?」
「…はい、何でしょう」
ノックの後に入って来たのは自分の母親の彩菜。
「勉強中じゃないのなら、早く来て頂戴」
どんな場面でもおっとりとしている性格の彼女が珍しく慌てているので、息子である手塚は読んでいた書物に栞を挟んで椅子から立ち上がった。

日曜日の昼下がり。
ここは都内某所の静かな住宅街の一角にある手塚邸。
祖父の国一、父の国晴、母の彩菜、そして一人息子である国光の4人で暮らしている。
手塚は都内でも有名な私立の学校に通っている。
中等部から大学部までの一貫校で、現在は高等部に在籍し2年生だ。
部活動は幼い頃から続けてきたテニス部に所属している。
今日は午前中の練習のみだったので、終わってから自宅に戻り昼食を済ませた後は、自室でゆっくりと読書の時間に費やしていた。

「何かあったのですか?」
「いいから、早く」
彩菜に急かされて階段を降りて向かった先は自宅の庭。
祖父の趣味で広い庭には池と鹿脅し。
カコン、と竹の心地良い良い音が響き、池には品評会に出せそうなほど色鮮やかな数匹の錦鯉が泳いでいる。
この池は大切な鯉が猫や鳥に狙われないように少し深い作りになっていた。
「ほら、あそこ…」
彩菜が指差した先には、先日祖父が気に入って購入してきた小さな浮島。
「…黒猫、ですね」
そこには池に落ちてしまったのか、耳の先から尻尾の先までびしょ濡れになった黒猫の子供が、不安定な浮島の上でプルプルと震えていた。
「庭で草取りをしていたら、あの猫ちゃんが池に落ちて来たのよ。助けようにも逃げちゃうから…」
「落ちて来たって、どこからですか?」
「…空からかしら?本当にいきなりだったのよ」
「空からですか…」
池の周囲には猫や鳥が近寄らないように高い木は植えておらず、小動物が空から池の鯉を狙う事は出来ない。
母の言うとおり、空から猫が降って来る映像を頭に思い浮かべてみたが、絶対に有り得ないと即行で頭から抹消した。
「とりあえず助けます」
「お願いね」
きっと、どこからか走って来たついでに誤って池に落ちたのでは無いかと決め付けると、手塚は靴と靴下を脱ぎ、濡れないようズボンの裾を膝まで上げると、子猫を助ける為に池の中に入った。
「……にゃう…」
ゆらりと水面が揺れ、浮島も不安定に揺らいでいた。
子猫は池に入って来た手塚を警戒するが、逃げようにもまた溺れるだけなのは理解しているのか、浮島の上にじっとしていた。
「…何もしない、大丈夫だ」
手塚が歩くと浮島も同じように動く。
必死になってしがみついている子猫を驚かせないように両手で持ち上げると、子猫は蜂蜜色をした大きな瞳で手塚の顔を凝視していた。


「一体、どこの猫ちゃんかしら?」
息子が助けている間に、彩菜は風呂場からタオルとドライヤーを取りに行っていた。
助け出した子猫をタオルで包んでからリビングに連れて行き、濡れている全身の毛を乾かしていた。
「首輪もしていないし、きっと野良猫でしょう」
ちょいちょいと頭を撫でてみる。
子猫であろうが、野生で生きる動物なので、身の守る為の爪や牙を持っている。
今まで大人しくていても急に豹変する事もあるので、少し様子を見ていた。
「でも、こんなに人に慣れているのよ」
池の中で彩菜から逃げようとしたのは、水に落ちた事で驚いただけで、助けた後は大人しくしていた。
身体にあたる暖かい熱が気持ち良いのか、子猫は目を細めてじっとしている。
「…うふふ、本当に可愛いわね。野良ちゃんなら家で飼おうかしら?」
ドライヤーの温風で毛はふわふわと踊る。
毛の手触りが良くて、彩菜は頭から背を何度も撫でるが、子猫はその手を嫌がる様子は全く無かった。
「よろしいのですか?」
「あら、おじい様も猫がお好きなのよ?国光は知らなかった?」
「…初めて伺いました」
「それじゃあ、決まりね」
耳の先から尻尾の先まで乾いたのを手で確かめると、ドライヤーを止める。
「…今日のお夕食はお刺身だけど食べるかしら?」
キャットフードは頭に無いのか、自分達と同じ物を食べさせようとしていた。
彩菜は洋食よりも和食を好んで作る。
もちろん育ち盛りの息子がいるので肉も出しているが、野菜と肉が中心だった。
「猫ちゃんは何が好き?」
訊ねるように顔を近づけると、子猫は大きな瞳で彩菜を見つめて「にゃ」と小さく鳴いた。

「あらあら?ミルクは嫌いなのかしら?」
夕食の前に何かあげようと、冷蔵庫の中からパックの牛乳を取り出し、鍋で少し温めてから深めの皿に入れて子猫に差し出す。
子猫はふんふんと匂いを嗅いだ後、小さな舌でペロリと一度舐めただけで、ずりずりと後退りしてしまった。
「…珍しいですね」
「お水でいいのかしら?」
近くにあったコップに蛇口から直接水を入れ、違う皿に注いで差し出せば、今度はペロペロと舐め始める。
「良かったわ。それじゃあ、私はちょっとお買い物に行くわ」
しばらく子猫の可愛い姿を堪能していた2人だったが、猫を飼うには必要とする物が多いのを思い出し、彩菜は早速購入する事にした。
「本当によろしいのですか?」
「いいのよ」
きっぱりと言い捨てる。
祖父や父の事はこの際後回しらしく、「トイレ用の砂に、シャンプーに、あ、子猫だから遊び道具も必要よね」と、楽しそうに買い物リストを書き出している。
「また後でね」
とりあえず必要な物をリストアップすると、まだ水を舐めている子猫の頭を撫でた。
買い物用のバッグを手に取ると出掛けて行った。
「…まあ、俺も手伝えばいいか…ん?どうした」
とても楽しそうな母の様子に、手塚は大きく息を吐く。
毎日、自分達の世話で手一杯の母が、やんちゃ盛りの子猫の世話までしていては、疲れてしまうかもしれない。
ペットの世話には慣れていないが、出来るだけのサポートをしようと決めた時、足元に子猫が擦り寄る。
「にゃう」
「…動物の言葉はわからんが…」
足に顔を摺り寄せる子猫が水だけでは物足りないのだと判断した手塚は、冷蔵庫の中を物色し、味噌汁の出汁に使う煮干しを数個取り出した。
「少し我慢してくれ」
片手に煮干しを持ち、もう片方で子猫を持ち上げると、リビングに移動した。

ソファーの上に座り、子猫を自分の横に下ろすと、煮干しを適当な大きさに千切って手の平に置いた。
「これはどうだ?」
味噌汁の出汁用として使っているが、栄養があるから具材としても食べているので、これなら大丈夫だろうと取り出したのはいいが、子猫が食べるのかはわからない。
「…にゃ…」
子猫は手の平に乗っている煮干しをまじまじと見つめてから、はむ、と口の中に入れた。
うにゃうにゃと必死に口を動かしている。
噛み砕き飲み込んだ後、もっと欲しいと訴えるように手塚の顔を見上げてきた。
「ほら…」
じっと見上げる顔の可愛らしさに、同じように手の平に乗せれば、子猫は手塚から視線を急いで移して煮干しを口に入れる。
「にゃう、にゃ…」
どうやら子猫は想像以上に腹ペコだったらしく、この行動を何回も繰り返していた。
「これで終わりだぞ」
手塚の言葉を理解しているのか、最後の一切れはゆっくり噛み砕き、飲み込んでいた。
牛乳とは違い、煮干しは気に入ってもらえたようで、持って来た数個を全て食べてしまい、腹が一杯になった子猫は手塚の傍で丸くなり、そのまま寝入ってしまった。
「…悪くないな」
自分の拳よりも小さな頭を手の平で撫でてやる。
幼い頃から今の今まで自宅でペットを飼った事は無い。
鯉はペットというよりも、観賞用の生き物。
家族の中で動物嫌いがいるのでは無く、誰も飼いたいと言わないから今まで飼わなかっただけだ。
「…飼うのなら名前を付けなければな」
すやすやと眠っている子猫の寝顔に笑みを零す。
彩菜が買い物から戻って来るまでの間、手塚は子猫を起こす事は無かった。


「ほう、これは器量良しだのう」
「誰かに教えられたんでしょうか」
休日出勤をしていた父と、警察の道場で師範をしている祖父が戻ると、彩菜は子猫を2人に見せながら昼間にあった出来事を話した。
子猫は彩菜が飼って来たトイレ用の砂は無視して、家の中にあるトイレまで移動した上、人間と同じように便器で用を足した事は家族の誰にも衝撃的な一件であり、夕食中の今でも、子猫は皿に乗せられた刺身を器用に前足で掴み、口に運んでいる。
「こんな器用な猫なら、野良と違うんじゃないのか」
「…やっぱりそうなのかしら?」
子猫なのに、家の中をバタバタと走り回る事もしない。
初めて会う人間にも物怖じしない。
食事も皿から零す事無くキレイに食べている。
「明日にでも近くのペットショップに聞いてみるわ」
最後の一切れになった刺身も食べ終わった子猫は、お腹が満たされて満足気に鳴いていた。

彩菜が買って来た子猫用の寝具は、色々と考えた末、手塚の部屋に置かれる事になった。
どうやら一番懐かれている上、非常に大人しいので、勉強の邪魔にはならないと判断されたからだ。
「今日からはここがお前の部屋という訳だ。まあ、俺と同室で悪いがな」
子猫の寝具はベッドのすぐ横に置く。
昼間は暖かいリビングにでもいるだろうし、ここは夜だけの寝床だ。
「…にゃ」
一旦はベッドの上に降ろされた子猫だったが、色々な物がある室内を物色する為に床に下りた。
大きなガラスの棚に爪を出さずに前足を当てる。
「これは釣竿だ…まあ、言ってもわからないだろうが」
「にゃぁ…」
物珍しそうに大きなガラスケースを見ている子猫が、下手に爪を立てて引っ掻いてはいけないと、手塚は両手で抱え上げて、正面から見せる。
「こちらはルアーだ。釣りの道具だが、こうして飾ればインテリアにもなる」
せっかく同じ部屋にいるのだからと、子猫にとっては広い室内を案内させていた。

「そろそろ寝るか」
手塚のベッドが気に入ったのか、子猫はベッドの上で小さな身体を更に小さく丸めていた。
気に入っている場所から退かすのも可哀想だと、部屋の電気を消してベッドに入る。
「…どうした?」
ベッドに入った手塚に代わり、子猫は何かを感じ取ったのか、耳をピンと立ててベッドから下りてしまい、暗い室内を微かに照らしている月明かりの中に立つ。
「……何だ…」
月明かりの中で佇む子猫。
部屋の中には子猫の影が大きく壁に写る。
その影がゆっくりと形を変え始める。
両手に乗る程度の姿は長く伸び、その過程で生えていた耳や尻尾、更には黒い毛とヒゲなどは体内に消え始め、最終的にその姿は人間と変わらないものになっていた。
子猫の変わりに月明かりの中に現れたのは、自分とそう変わらない姿をした少年だった。
ただ、その身には何も纏っておらず、裸体を晒していた。
「…戻った。やっぱりこの手の類だったんだ」
立ち膝姿の少年は腕を上げてみたりして自分の身体に異常が無いかを確かめると、安心したのか床にぺたりと座り込んで息を吐くが、ベッドの上では手塚が目を見開いて固まっていた。
「…あ、その…」
「…お前は…?」

何が起きたのか瞬時に理解できず、手塚は一瞬言葉を失っていた。



何だかいきなり話が進みましたよ。
さて、これからどうなるのか?